なんでこんな都会の真ん中に住んでいるんだろう。
不思議なんです。
そんなに都会の真ん中に住む気なんかないのに、今縁あって名古屋市中区丸の内に住んでいます。
近くに愛知県庁・名古屋市役所・裁判所などがある場所がら、通勤時はここに向かって人がやってきます。
そんなところに好んで住みたいと思っているわけではないのです。
ただの成り行きです。
でも実は必然的な結果なんですよね。
でも成り行きとはいえ、自分が判断しての結果には違いありません。
成り行きだからこそ今があると言うことも言えるでしょうが。
前者は、成り行きとはいえ、判断して行動を起こすのは結局自分でしかないと言う意味です。
物事は必然であって偶然ではあり得ないと言いますから、そう言うことなのです。
自分ではこんな都会に住む判断や選択をしないと思っていても、ここに住むのが必然な、ある理由が存在する。
その理由によってここ都会に住むわけですが、それを判断したのは自分であり必然なのです。
だから元々都会のど真ん中に住むつもりがなかった自分なのに、実際にはここに住んでいるわけです。
後者は、人に導かれてここにいると言うことからすると、あくまでも成り行きに従ってここにいる気もすると言うことです。
同じことを違う面から見たにすぎないのか。
同じ「なぜここに住んでいるのか?」「元々都会に住む気なんかないのに?」を考えたところで、自分主体で考えると必然だし、他者主体で考えると成り行きだ。
でも、物事がそれでも進んでいくのは必然なわけです。
どっちにしても必然なら、それに乗っかって進んでやれ。
好きだ嫌だといちいち思っていたって、人生は進んでいく。
やりたくないことがやってきたって、やるしかないことだってある。
やりたいことが目の前にやってきたらやればいいのだけれど、それがやれなかったとしてもそれも必然。
いい意味で成り行き任せかも知れません。
でも同じくいい意味で主体的でもある。
僕は神様の存在を信じているのですが、所詮神様の手のひらの上で遊んでいるんだと思っているのです。
だからとにかくやってみよう精神で進んでいきたいし、多分進んでいるのです。
(でも多分そんなことは自分主体ではなくて、神様の掌の上での必然なんでしょうね。)